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山形地方裁判所 昭和53年(ワ)73号 判決

原告

竹田高

被告

田中与惣右衛門

ほか二名

主文

1  被告田中与惣右衛門、同田中篤は原告に対し、各自八八万四七六二円及びうち七八万四七六二円に対する昭和四九年一月二四日から、うち一〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告小内信夫は原告に対し、一八一六万七五三九円及びうち一七一六万七五三九円に対する昭和五一年一一月一九日から、うち一〇〇万円に対する本判決言渡の日の翌日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  原告のその余の請求をいずれも棄却する。

4  訴訟費用は、原告と被告田中与惣右衛門、同田中篤との関係においてはこれを一〇分し、その九を原告の、その余を同被告らの連帯負担とし、原告と被告小内信夫の関係においてはこれを三分し、その一を原告の、その余を同被告の負担とする。

5  この判決第一、二項は仮に執行することができる。

事実

一  原告訴訟代理人は、「被告らは各自原告に対し、二八八八万六七三五円(但し被告小内は二七七二万二三三五円の限度で)及びうち二九六万九二九一円に対する昭和四九年一月二四日から、うち二三三一万七四四四円に対する昭和四九年一二月八日から(但し被告小内はうち二五二二万二三三五円に対する昭和五一年一一月一九日から)、うち二六〇万円(但し被告小内は二五〇万円の限度で)に対するこの判決言渡の日の翌日から各完済まで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、その請求原因として

1  被告田中篤は昭和四五年八月一五日午前一〇時三〇分頃、普通トラツクを運転して山形県最上郡戸沢村大字蔵岡地内の国道四七号線を新庄方面から古口方面に向かい進行中、前車を追越そうとしたのであるが、このような場合、自動車を運転する者としては対向車の有無に注意し、これとの衝突、接触がないよう追越の時期、方法等を選ぶべきところ、被告田中篤は時速約八〇キロの速度で漫然センターラインを越えて追越しにかかつた過失により、対向する原告のバイクに自車を衝突させ、原告に対し顔面、顎部、下口唇挫創、口腔内裂傷、右頸部、胸骨部裂傷、右大腿部完全骨折の傷害を与え、かつ原告のバイクを大破させるに至つた。

2  そこで被告田中篤は直接の加害者として民法第七〇九条により、被告田中与惣右衛門は本件トラツクの運行供用者であるから自動車損害賠償保障法(以下自賠法という)第三条により本件事故により原告の被つた後記損害を賠償すべき責任があるが、被告両各は昭和四五年九月二〇日、原告に対し、本件事故による損害を左記のとおり賠償する旨の約束をした。

(1)  バイクの損害は全額賠償する。

(2)  治療費は全治まで全額賠償する。

(3)  休業損害は全治まで一日二二〇〇円の割合で賠償する。

(4)  付添費用は一日一二〇〇円の割合で賠償する。

(5)  慰謝料は全治まで一日一〇〇〇円の割合で賠償する。

(6)  後遺症が生じた場合には、専門家の診断に基づいて賠償する。

3  原告は本件事故直後、新庄市鉄砲町七番二八号小内医院に運ばれ、同医院で被告小内信夫の治療を受けていたが、右の傷害は治療するに至らなかつた。

そこで原告は昭和四七年五月一二日東北大学医学部附属病院で診断を受けたところ、さらに入院手術の必要があるとされたので、原告は、(1)昭和四七年五月二〇日から同年九月一四日まで一一七日間、(2)昭和四八年二月七日から同年四月九日まで六一日間それぞれ同附属病院に入院して手術を受け、退院後も同附属病院に通院し、同年五月九日、原告の右傷害は左膝関節拘縮、同運動領域制限、左大腿変形、同内反変形、同筋萎縮(一)、左下肢短縮の後遺症をのこして症状が固定したが、右は後遺症等級八級に該当する。

4  原告が右のような後遺症をえたのは、もとはといえば本件事故による受傷に端を発しているのであるが、原告の傷害の治療にあたつた被告小内の後記診療上の過誤にも因るのである。

しかして原告と被告小内との間に昭和四五年八月一五日本件事故による受傷に関し、被告小内は外科ないし整形外科の開業医として最善の診療行為をなすべき債務を含む診療契約をなしたものであるところ、被告小内は右診療契約上の債務不履行もしくは診療上の過失により原告に対し、後記傷害を与えたのであるから、被告小内は被告田中与惣右衛門、同田中篤の両名と連帯して債務不履行もしくは不法行為に基づく損害賠償の責任があるのである。

(1)  本件骨折は左大腿骨下三分の一の部位の完全骨折であつたから、本件の場合はその手術の方式としてプレート固定方式が選択されるべきであつた。個人開業医でも他から医師の応援を求めれば、プレート固定式手術は決して困難ではない。しかるに被告小内は原告に対しはじめ牽引療法を行つた後、本件骨折に対する処置としては不適切とも思われる骨皮質縫合術を行つた。骨皮質縫合術による場合は、銀線を使用した部分的縫合に過ぎないから比較的弱い力によつても銀線が容易に切断する危険があるし、あるいは銀線に繰り返えし力が作用することでも銀線は容易に切断する難点があるのである。

(2)  次に被告小内は原告に対し自己の行つた縫合術は完全なものと信じ、手術日の前日にレントゲン写真をとつただけで、その後一度もレントゲン写真をとることなく、昭和四五年一二月三〇日頃原告に対し治癒を宣言し、かつ就労してもよいとの許可を与えた。原告の左右大腿部は四横指位の間隔があり、かつ骨折部に変形がみられ、また左膝関節には拘縮がみられたので、被告小内としては偽関節を疑い、レントゲン写真をとつて治癒を確認すべきであつた。

もしこの段階で右のような確認をしていたならば、偽関節を発見することができ、改めてプレート固定式手術を行うか、あるいは原告を然るべき専門病院に紹介するなどして傷害の治癒の時期を早め、しかもより軽度の後遺症にとどめることができた筈である。さらに原告は小内医院を退院して後も被告小内に異常を訴え大学病院へ紹介して欲しい旨依頼したのであるが、被告小内はこれに応じようとはせず、歩けば治る旨誤つた指示を繰り返えし、そのため原告の傷害の回復を遅らせ、後遺症を重くしているのである。

(3)  さらにいえば被告小内が、原告の受傷状況からして、同被告の経営する小内医院の人的物的設備に照らし、原告に適切な治療を行うのが困難と判断したのであれば、原告をすみやかに大学病院あるいは綜合病院などより設備の整つた医療機関に送るべき注意義務があつたところ、被告小内はこれを怠り自ら診療にあたつたため、原告に対し前記の後遺障害を与えたのである。

5  原告の蒙つた損害は次のとおりである。

(一)  休業損害

(1) 昭和四五年八月一五日から同四八年二月二八日まで

一日二二〇〇円として 二〇四万一六〇〇円

2,200円×928日=204万1,600円

(2) 昭和四八年三月一日から同四九年五月九日まで

一日二二〇〇円として 九五万七〇〇〇円

2,200円×435日=95万7,000円

(二)  付添費

一日一二〇〇円として 一六万四四〇〇円

1,200円×137日=16万4,400円

(三) バイク損料 四万円

(四) 東北大学医学部附属病院第一回入院関係費用 二八万三七二九円

内訳

(1)  入院前の外来診察費 一〇一円

(2)  同宿泊費 九八〇四円

(3)  入院治療費 一二万七三六五円

(4)  付添料 一三万六二九〇円

(5)  入院雑費(諸電力料金) 二二六〇円

(6)  退院後の外来診療費 七五九円

(7)  同宿泊費 二四三〇円

(8)  交通費(通院四回として入、通院計五回分) 四七二〇円

(五) 同附属病院第二回入院関係費用 一二万一一六二円

内訳

(1)  入院治療費 九万八九二八円

(2)  同雑費 一万九九六〇円

(3)  退院後の外来診察治療費 三九〇円

(4)  交通費(入、通院各一回分のうち) 一八八四円

(六) 労働能力喪失による逸失利益

原告は本件事故当時左官職人であつたところ、前記後遺症により労働能力の四五パーセントを喪失した。

原告は昭和四九年五月九日症状固定時満二二歳の男子であつて就労可能年数は四五年である。

そして昭和四九年度における左官職人の年間収入は、次のとおり一九三万六六三二円を下らない。

すなわち(イ)常傭の場合一ケ月の収入は一四万四五二五円である。(常傭の場合一日の賃金は五〇〇〇円であり、一ケ月に二五日就労できるとしてその合計は一二万五〇〇〇円である。これに時間外労働を一ケ月に二五時間するとして、一時間当りの手当は七八一円であるからその合計一万九五二五円を加えたもの。)(ロ)請負の場合は平均して常傭賃金の三五パーセント増であるから一ケ月の収入は、一九万五一〇八円を下らない。(ハ)ところで通常左官職の常傭と請負の比はほぼ二対一の割合であるから、年間の収入は、14万4,525円×8=115万6,200円……〈1〉、19万5,108円×4=78万0,432円……〈2〉 〈1〉+〈2〉=193万6,632円 一九三万六六三二円である。

よつて逸失利益の合計は次の算式により、二〇二四万五四四四円である。

193万6,632円×0.45×23.231(ホフマン係数)=2,024万5,444円

仮りに右の計算関係が是認し得ないとしても、原告は、本件事故による傷害のため足にしびれがあり、疲れ易くなつたので残業が少く、かつ休み勝であるし、足の関節が悪く不安定であるため高所での作業や台の上での作業は不可能となつた。原告が第一建設企業組合で働いている限りでは相互扶助の精神から賃金に格差がつけられず、また作業の場所も配慮されてはいるものの、それでも残業が少なく休みが多いので失業保険給付を入れても、原告の収入は他の組合員の七〇パーセントにしかならない。

昭和五二年の原告の収入は一五八万二〇〇〇円であつたから、同年度における同企業組合の一般組合員の収入は二二六万円である。ところで同年度における同企業組合の支払賃金は七五〇〇円であり、その後の賃金上昇の結果、昭和五四、五年度におけるその支払賃金は八五〇〇円を上廻ることが見込まれるので、同年度における一般組合員の収入は二五六万円を下らないものということができる。しかして原告の労働能力喪失の程度は将来全体を通じてみれば三七・五パーセントとみるのが相当であるから、原告は年間二五六万円の三七・五パーセントすなわち九六万円の利益を失うこととなリ、前同様の方法でその現価を算出すれば

96万円×23,231=22,301,760円

二二三〇万一七六〇円となるが、このうち前記金額を請求する。

(七) 慰謝料

(1)  原告は本件受傷により長期にわたり入院、通院して治療を受け、多大の肉体的、精神的苦痛を被つたのであるが、原告の右受傷に対する慰謝料を前記特約によつて算定すれば、一三六万三〇〇〇円となる。

(2)  原告の後遺障害に対する慰謝料は三三六万円である。

(八) 弁護士費用 二六〇万円(但し被告小内に対しては二五〇万円)

6 しかるところ原告は(1)被告田中与惣右衛門から六〇万九六〇〇円の支払を受けたので、うち三六万九六〇〇円を5(一)の休業損害(1)の内金に、うち七万二〇〇〇円を5(一)の付添費用の内金に、うち一六万八〇〇〇円を5(七)の慰謝料(1)の内金に各充当し、また(2)の自賠責保険から一六八万円の支払を受けたので、うち六八万円を5(七)の慰謝料(2)の内金に、うち一〇〇万円を5(六)の逸失利益の内金に各充当した。

そうすると原告が未だ賠償を受けない損害額は被告田中篤、同田中与惣右衛門との関係では右弁護士費用を除き合計二六二八万六七三五円であり、また被告小内信夫との関係では右弁護士費用を除き5(一)の休業損害(1)のうち一〇〇万円、(2)、(四)、(五)(六)、(七)の慰謝料(1)のうち五〇万円、(2)の合計二五二二万二三三五円である。

7 よつて原告は被告らに対し、各自二八八八万六七三五円(但し被告小内は二七七二万二三三五円の限度で)及びうち二九六万九二九一円に対する訴状送達の日の翌日である昭和四九年一月二四日から、うち二三三一万七四四四円に対する請求の趣旨拡張の日の翌日である昭和四九年一二月八日から(但し被告小内はうち二五二二万二三三五円に対する訴状送達の日の翌日である昭和五一年一一月一九日から)、うち二六〇万円(但し被告小内は二五〇万円の限度で)に対する第一審判決言渡しの日の翌日から各完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

と述べ、なお原告が被告小内信夫の過失を知つたのは昭和五〇年一〇月七日の口頭弁論期日において証人川村正典の証言を聞いたときであると主張した。

二  被告田中与惣右衛門、同田中篤の訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因に対する答弁として、

1  請求原因事実第一項中、本件事故の発生と原告受傷の点は認める。

2  同第二項は認める。

3  同第五項は不知。

4  同第六項は、被告らの支払つた金額を争う。被告らは原告に対し昭和四六年七月まで総額で一〇六万円余を支払つている。

と述べ、なお次のとおり主張した。

5  原告は受傷後小内医院で被告小内信夫の治療を受け、昭和四六年一月同被告から、原告の傷害は後遺症もなく全治したとの診断をうけている。

6  被告らは右事実を全く知らず、全治後も原告からの請求に対し、月々の支払をなしてきたのであるが、昭和四六年八月右の事実を知つたので以後の支払を中止している。そして昭和四六年九月原、被告ら双方立会のうえ、被告小内信夫の再診を受けた結果、全治した事実が確認されたのである。以上の経過から、被告らが原告の全治後に支払つた四五万円余の金額は過払となつているのである。

7  しかるに原告は昭和四七年五月頃に東北大学医学部附属病院に入院した由であるが、主治医が後遺症なく全治した旨の診断を下してから一年数ケ月後に入院したことは、本件事故とは全く無関係の事故または病気によるものとしか考えられない。

三  被告小内信夫の訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因に対する答弁として、

1  請求原因事実第一項中、本件事故の発生と原告の受傷の点は認めるが、その余の点は不知。

2  同第二項は不知。

3  同第三項中、原告が受傷直後から被告小内の治療を受けた事実は認めるが、傷害が治癒するに至らなかつたとの点は否認する。原告は後にも述べるとおり昭和四五年八月一五日から同年一二月二九日まで被告小内の経営する小内医院に入院して治療を受けたが、被告小内は原告の経過が良好で、もはや入院による治療を継続する必要がないものと認めて退院させたものである。原告が東北大学医学部附属病院に入院して治療を受けたこと及びその主張のような後遺症をのこしたとの点は不知。

4  同第四項は争う。

5  同第五項は不知

と述べ、抗弁ないし主張として

1  医師としての治療は高度の専門的知識と技術を要し、患者の症状に即応した療法が選択されるべきであるが、その療法は決して単一のものに限られるべきではなく、その療法の選択には医師の裁量権が認められなければならない。原告は昭和四五年八月一五日、本件事故による受傷のため小内医院に入院したが、被告小内は原告の入院当時レントゲン写真をとつて応急処置を施し、患部を副木で固定し、同年八月一七日以降、変形機械矯正術(トラツク牽引法)を施行し、さらに昭和四五年九月二九日レントゲン写真をとつたが、骨癒合が形成されていないので、同年九月三〇日観血手術(本件では骨皮質縫合術)をし、その後ギブス装用の手当をし、昭和四五年一二月五日ギブスを除去し、同年同月二九日レントゲン写真を撮影した結果、経過良好であつたので、もはや入院のうち治療継続の必要なしと認めて、退院させたのである。被告小内のとつた以上の医療方法は当時の医学、医術の水準に則り、その裁量の範囲で行われ、かつ本件のような傷害について最も普通に行われていた治療方法であるから、被告小内が、原告の受傷内容が明らかとなりその治療方法が検討された段階において、原告を大学医学部附属病院等より設備の整つた医療機関に紹介するなどして最も適切な処置を受けさせるよう配慮すべき義務に違反したものということはできない。

2  被告小内は治療の過程において適宜必要に応じてレントゲン写真を撮つており、退院の頃もその写真を撮つているか、少くともレントゲンの透視をしているのであつて右の結果と外形から骨癒合を確認して原告を退院させたのである。

また被告小内が原告を退院させたのも経過が良好で、これ以上入院治療を継続する必要がないので退院を認めたのであり、その際原告に対し、完全に治癒したとか、歩けば治るとか、就労しても差支えない旨述べたことはない。

かえつて被告小内は原告の退院に際し「仕事はしないこと。松葉杖を備えて置くこと。転んでも悪いから注意せよ。無理せずに身体を馴らすようにすること。運動にもなるから時々来院して診て貰うようにすること。」など細々した注意を与えたのであるが、原告はその後来院せず、翌年一月三〇日になつてようやく風邪気味だと言つて来院したのであるが、右の折には原告から特に異常を訴えられなかつたし、診察の結果治癒状態が認められたのである。

3  右のとおり被告小内には原告の主張するような診療上の過誤は存しないのであるが、仮に被告小内の退院時における指示に適切さを欠くものがあつたとしても、原告は被告小内の指示に従わず、来院もせず、左官業に従事し、勝手に重いものを持ち運びして働いていたのである。もし退院後に症状の変化があれば、すみやかに被告小内の診察を受けるべきであつた。これらのことから骨折部に偽関節を生じ、その治療のため東北大学医学部附属病院に入院する仕儀となつたので、原告の右のような過失が、かえつて損害を発生させ、かつ損害額を大ならしめたものであるから、本件損害賠償額を算定するにあたつては十分斟酌されるべきである。

4  また被告小内が原告に対し損害賠償の責任があるにしても、原告に生じた損害は基本的には被告田中篤の行為によつて惹起されたものであるから、被告小内がその全額を弁償すべき義務はない。

5  なお被告小内に原告の主張するような過失があつたとしても、原告はこれを遅くとも昭和四七年九月一四日または昭和四八年四月九日東北大学医学部附属病院を退院する時点で知り得たものであるところ、原告はこれより三年を経過した昭和五一年一一月一二日に至つて本訴を提起したのであるから、不法行為を原因とする本件損害賠償請求権は時効によつて消滅したものといわなければならない。

と述べた。

四  証拠関係〔略〕

理由

一  昭和四五年八月一五日午前一〇時三〇分頃、山形県最上郡戸沢村大字蔵岡地内で原告の乗つたバイクと被告田中篤の運転する普通貨物自動車が衝突し、原告が顔面、顎部、下口唇に各挫創、口腔内、右脛部、胸骨部に各裂傷、右大腿部完全骨折の傷害を負つた事実は原告と被告ら間に争いがない。

右の事実と成立に争いのない甲第二一号証の二ないし四、原告本人尋問の結果によれば、

1  本件事故は山形県最上郡戸沢村大字蔵岡地内の国道四七号線上で発生したが、現場付近は直線かつ平坦なアスフアルト舗装の路面で、見通しは良好である。

2  被告田中篤は加害車を運転して右国道を新庄方面から古口方面に向け進行中、現場付近で前車の追い越しを図り、自車の速度を約七〇キロメートルに上げて進路を右に変え、前車と並進状態になつた際、はじめて前方から対進してくる原告のバイクを約六〇メートル先に認めた。

3  しかし被告田中篤は突然のことで狼狽してしまい、直ちに追越しを中止して進路を元に戻すなどの事故回避の措置をとらず、そのまま自車を進行させ、バイクとの距離が約三二メートルに迫つてあわてて急ブレーキを掛けながらハンドルを右に切り、更に左に切り戻した。

4  一方原告はバイクに乗つて右国道の左側端を古口方面から新庄方面に向かい時速約五〇キロメートルの速度で進行中、本件現場付近を対面進行してくる四台位の車両を約一〇〇メートル先に認めこれに接近するうち、突如その内の一台の車(加害車)が自車進路に進出し前車の追い越しにかかつた。

そこで原告は危険を感じたので警音器を鳴らして相手車両の運転者に注意を喚起したのであるが、加害者は減速もせず、なおも追越状態を続け、前記距離に迫つてにわかにハンドルを右に切つて来たので、とつさに加害車と被追越車との間隙を擦り抜けようとして右に進路を転じたところ、被告田中篤が更にハンドルを左に切り直し道路中央部にその向きを変えたので、やむなく急ブレーキを掛けたが及ばず、バイクの前車輪が加害車の左側前角付近に衝突し、原告は路上に転倒し、バイクも破損するに至つた。

以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

右認定の事実からすれば、本件事故は被告田中篤が追越しを図るにあたり、対向車の有無及びその動静に全く注意を払わず、しかも前車と並進状態に至つた際はじめて対進する原告のバイクを認めながらこれとの衝突を免れるべき適切な事故回避の措置をとらなかつたことにより惹起されたものと認められ、被告田中篤には右のような運転上の過失があつたといわなければならない。

また成立に争いのない甲第一号証及び弁論の全趣旨によれば、被告用中与右惣衛門が加害車を所有し自己の運行の用に供していたこと及び原告主張の日に原告と被告田中篤、同田中与右惣衛門との間に本件事故による損害の賠償に関し、その主張のとおりの合意(示談契約)が成立したこと(以上の各事実については原告と被告田中篤、同田中与惣右衛門との間に争いがない)の各事実が認められる。

従つて被告田中篤は民法第七〇九条、被告田中与右惣衛門は自賠法第三条(なお物損については前記示談契約)に基づき本件事故によつて原告の蒙つた後記損害を賠償する責任がある。

二  成立に争いのない甲第一九号証、原告及び被告小内信夫各本人尋問の結果によれば、原告が本件事故直後新庄市鉄砲町七番二八号所在小内医院に運ばれ、同医院で被告小内信夫の治療を受けたこと(この事実は原告と被告小内信夫間には争いがない)、及び原告が昭和四七年五月一二日東北大学医学部附属病院で診察を受けたところ入院手術の必要があると言われたので、まず昭和四七年五月二〇日から同年九月一四日まで一一七日間、ついで昭和四八年二月七日から同年四月九日まで六一日間それぞれ同病院に入院して手術を受け、退院後も同病院に通院して治療を受けたのであるが、同四八年五月九日原告の右傷害は後記のとおり左膝関節拘縮、左大腿短縮の後遺症を残して症状が固定したことの各事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

しかして右事実からすれば、原告と被告小内信夫間には、原告の受けた傷害に対し診断と治療を施すことを目的とする医療契約(準委任契約)が締結されているものと認められるところ、同被告は善良な管理者の注意をもつて右の債務の履行にあたるべき義務を負うているものと解せられる。

原告は被告小内信夫が右債務の履行にあたり前記の注意義務を懈怠した結果、原告に対し前記後遺障害を生ぜしめるに至つた旨主張し、同被告はこれを争い原告に生じた右後遺傷害はその責に帰すべからざる事由によつて生じたものである旨抗争するので、以下項を改めて判断する。

三1  成立に争いのない乙第三、四号証、証人小内信夫の証言、被告小内信夫本人尋問の結果(但し左記認定に副わない部分を除く)によれば、小内医院における診療の経過は次のとおりである。

(一)  原告は本件事故直後の昭和四五年八月一五日午後、小内医院に収容され、被告小内信夫医師の診察を受けたが、原告の顔面、顎部、下口唇に挫創が、口腔内、右頸部、胸骨部に裂傷が認められたほか、レントゲン撮影の結果左大腿部二分の一(ないし下三分の一)の個所に完全斜骨折のあることが判明した。そこで被告小内信夫は外傷の手当てをする一方、右骨折に対しては副木で固定するなどの応急処置を講じた。

(二)  そして同被告は右骨折に対する整復処置として同年八月一七日から同年九月三〇日にかけて牽引療法を試み、同月二九日にレントゲン撮影をして患部の整復状況を観察したが、いまだ正常な骨癒合の形成が認められなかつた。

(三)  そこで同被告は同年九月三〇日右骨折に対する整復固定の方法として観血的骨接合術(骨皮質縫合術を採用)をし、同年一〇月九日ギブスで患部を固定し、治療を続けていたが、右骨折の部位、種類及び原告の年齢等に照らし経験上すでに正常な骨癒合の形成がなされたものと判断して同年一二月五日ギブスを外ずし、その後は原告に対し退院に備えて院内での歩行訓練をさせた。

(四)  そして同被告は一ケ月後の来院を約させたうえ、同年一二月二九日原告を退院させたが、退院にあたり原告に対し、歩行訓練を続けながら徐々に身体を慣らして行くこと、重い物を持つたり無理な動作を避けるなどの一般的な注意と指示を与え、かつ松葉杖を貸し与えた。

(五)  なお同被告は同年九月二九日のレントゲン撮影以降レントゲン写真または透視による骨折部位の検査をしなかつた。

2  原告及び被告小内信夫の各本人尋問の結果によれば、原告小内医院を退院してから東北大学医学部附属病院で診察を受けるまでの経過は次のとおりである。

(一)  原告は小内医院を退院後翌四六年一月一杯はもつぱら屋内で歩行訓練をしていた。

(二)  原告は同年一月三〇日、小内医院を訪れ、被告小内信夫の診察を受けたが、同被告は原告から膝関節が屈曲しないとの訴え以外には特に異常の認められないことから、右大腿骨々折は後遺症を残さず治癒するに至つたと判断し、原告の右の訴えに対しては歩行訓練を続けていくことで復調する旨説明した。原告は同日松葉杖を返えし、じ後同被告の治療を受けていない。

(三)  原告は昭和四六年二月、東京都内に住む実兄方に身を寄せ、歩行訓練を兼ねて近所のマツサージ師の許に通い、同年四月帰郷後、県内の肘折温泉に赴き、五〇日余り湯治をした。

(四)  そして原告は同年夏の間は実家で兄の子の遊び相手などしながら無為の日々を過ごしていたが、同年秋にはようやく体力がついて来たので、車で山から生花の材料を採取したり、兄について現場で左官の仕事、それも掃除や壁塗りの作業の程度、を手伝い、時にはセメント袋(約四〇キログラム)を持ち運ぶこともあつた。

(五)  しかし昭和四七年春頃になつて以前から現われていた左大腿部の変形がますますひどくなり、膝関節の屈曲も改善されないままであつたことから、原告は父を通じて被告小内信夫に相談し、同被告の勧めで東北大学医学部附属病院で診察を受けることとなつた。

3  成立に争いない甲第二二号証ないし第三八号証(第二七号証、第三七号証は原本の存在も)、第四三号証、証人川村正典(第一、二回)、同笹森紀男の各証言によれば、東北大学医学部附属病院における診療の経過は次のとおりである。

(一)  原告は昭和四七年五月一二日、東北大学医学部附属病院整形外科で診療を受け、担当医師による問診、触診等の結果、左大腿骨骨折部(下三分の一)に変形及び異常可動性があり、右の変形及び異常可動性はレントゲン検査の結果偽関節の形成によるものと認められ、また膝関節に拘縮があり強い運動制限(範囲零度から三五度)が認められた。

(二)  そこで同病院では同年五月二〇日原告を入院させ、同年六月一日偽関節部骨接合術(頸骨から骨片を移植し金属プレートで内固定するプレート固定術を採用)を施行し、約二ケ月間ギブス固定をしたが、骨癒合が良好になされたので同年九月一四日原告を退院させた。なお右退院時には膝関節の運動制限は強く、その範囲は零度から三〇度を示していた。

(三)  その後同病院では原告を通院させ骨癒合の状態を観察していたところ、翌四八年に入つて骨癒合の形成が認められたので同年二月七日原告を再び同病院に入院させ、同月一三日膝関節拘縮を改善させるための膝関節授動術を施行し、あわせて前回の手術に使用した金属プレートを取り除いた。その結果膝関節の運動範囲は零度から一二〇度までとかなりの改善をみた。

(四)  そして原告は昭和四八年四月九日同病院を退院したが、その後昭和四九年五月九日同病院で最終診察を受けたところ、左膝関節には軽度の拘縮が残存するが、生活上全く支障はなく、しかも将来の治癒が見込まれる、ただ左下肢が六センチメートルほど短縮しており、これは後遺症として残るとの診断が下されている。

まず原告は、被告小内は原告の受傷状況に鑑み、他の人的物的設備のより整備された医療機関に原告の治療を委ねるべきであつた旨主張する。しかし被告小内信夫本人尋問の結果によれば、同被告は昭和一六年一二月岩手医学専門学校を卒業して医師免許を取得し、東京、仙台、北海道の各病院に勤務した後、昭和二三年頃新庄市で外科医院を開業し現在に至つており、臨床医として十分な知識、経験、技術を有し、かつその経営にかかる小内医院も外科医院としての通常の人的物的設備を具えていることが認められる一方、原告の本件傷害も同被告の診療の限界を超えるものとは認められないのであるから、同被告が原告を人的物的設備のより整備された他の医療機関に紹介し原告の治療を委ねなかつたとしても同被告が右契約上の注意義務を尽さなかつたものということはできない。

次に原告は被告小内の選択した手術の方法は本件骨折の場合不適当であつた旨主張する。医師は相当高度の専門的技術を駆使して患者の治療行為にあたるのであつて、その範囲ではある程度の裁量が認められるべきである。そしてある症例に対し医師のとつた医療処置が当時の医療水準に照らし相当と認められる限りにおいてはその裁量の範囲に属し、結果的に所期の効果が得られなかつたものとしてもその選択の当否は問題とすべきではない。本件の場合被告小内が観血的骨接合術として採用した骨皮質縫合術は本件のような大腿骨骨折の場合、通常用いられる術技の一つであつて当時のみならず現在の医療水準に照らしても相当のものであることは前掲証人川村正典の証言によつても明らかであるから、被告小内の採用した骨皮質縫合術をもつて本件骨折に不適当な手術方法であつたとの原告の右主張はあたらない。

ところで原告は被告小内のとつた術後の措置に誤りがあつた旨主張する。原告の前記後遺障害のうち、膝関節拘縮の点は前掲証人川村正典の証言(第一回)によれば、本件のような大腿骨骨折(二分の一ないし下三分の一)に対し観血的骨接合術を施した場合現代の医学では避けられないものであることが認められるのであるから、右拘縮の発生について被告小内の過誤は差し当り問題とはならないが、これに反し下肢短縮の点は、前掲証人川村正典の証言(第一回)によれば、東北大学医学部附属病院における偽関節部骨接合術の結果、不可避的に生じたものであることが認められるのであるから、結局は偽関節の形成にその原因を求めることができる。しかして前掲証人川村正典の証言によれば偽関節の原因は多様であり、本件の場合でも原告の骨折部に生じた偽関節の原因は証拠上これを明らかにすることはできない(ただ一般医学書によれば「偽関節の原因の過半は局所的要因によるもので、しかもその多くは治療法が当をえなかつたものと断定してよい。」旨記述されている。例えば児玉俊夫著「整形外科教科書」一五八頁、神中正一著「神中整形外科学」一六三頁参照。しかし本件の場合その原因を不適当な治療法によるものと即断することはできない。)が、前記認定の事実からすれば、原告が小内医院を退院する時点ではいまだ正常な骨癒合が形成されるに至らなかつたもの、従つて偽関節の状態であつたものと推認される。そして前掲証人川村正典の証言によれば、骨折部が癒合したかどうかはレントゲン検査(多角的に)により容易にこれを確認できることが認められるのであるから、被告小内が少くとも原告の退院前に骨折部のレントゲン検査を実施すれば、偽関節の状態を確認することができ、早期に再手術を含む適切な治療方法を講ずることにより前記後遺症を未然に喰いとめ、あるいはその程度を最小限のものとなし得たと思われる。しかるに同被告はレントゲン検査による骨折部の癒合状態の確認を怠り、自らの知識と経験によりすでに正常な骨癒合がなされているものと即断して原告を退院させ、右偽関節に対する適切な治療の時期を逸したものであつて、この点において医師としてその尽すべき注意義務を怠つたとの譏りを免れない。

以上の次第で原告に生じた右後遺障害は被告小内信夫がその医師としての職務上の注意義務に違反した結果招来されたものといわざるを得ないから、同被告には債務不履行責任があるものといわざるを得ない。また同被告に帰責事由のあることも明らかである。

四  ところで本件のように交通事故の発生後医療過誤の存在が認められる場合、交通事故の加害者と医者の負うべき損害賠償義務の関係如何は一つの問題であるが、本件の如く医療過誤による損害が後遺症に限られ、しかもその医療過誤がなければ右の後遺症は存在しなかつたものと認められるときには、医療過誤による損害(後遺障害に関する部分)と交通事故との間には相当因果関係は認められず、従つて右部分については医師が単独で損害賠償義務を負うべきものと考える。

右の観点に立つて原告の損害中被告らの負担すべき部分を各別に検討するに、

(被告田中与惣右衛門、同田中篤関係)

1  休業損害 一九一万四〇〇〇円

前掲甲第一九号証によれば、原告は昭和四九年五月九日、東北大学医学部附属病院で嘉数医師の診察を受けたところ、左膝関節部に軽度の拘縮が残存するが、生活には全く支障はないものと診断されていることが認められるので、原告の傷害は遅くとも右の時期までには治癒し、就労ができたものと認められ、右認定に反する前掲乙第三号証は措信できず、他に右の認定を左右するに足りるだけの証拠はない。しかし原告の傷害の治癒が遷延したのは被告小内の医療過誤に因るものであることは前記認定したところから明らかであるから、もし右の医療過誤がなければ、原告の傷害はより早期に治癒したことが容易に推認されるところ、その時期は、原告が東北大学医学部附属病院に入院して偽関節接合術を受け退院してから再入院するまでの期間と同病院に再入院して膝関節授動術を受け退院してから症状が固定するまでの期間を考慮すれば遅くとも昭和四七年一二月末頃とするのが相当であるから、前記治癒に至るまでの期間中被告両名の責を負うべき日数は八七〇日である。

そこで前記示談契約に基づいて被告両名の支払うべき金額を算出すれば

2,200円×870日=191万4,000円

一九一万四〇〇〇円となる。

2  付添費 一二万九六〇〇円

前掲乙第三、四号証によれば、原告は小内医院に入院中、昭和四五年八月一五日から同年一一月三〇日まで一〇八日間付添看護を要したことが認められるところ、前記示談契約に基づいて被告両名の支払うべき金額を算出すれば、

1,200円×108日=12万9,600円

一二万九六〇〇〇円となる。

3  バイク損料 四万円

原告本人尋問の結果及びこれにより成立の認められる甲第二〇号証によれば、本件事故により原告所有のバイクが破損し使用不能となつたところ、事故当時における右バイクの価格は四万円相当であつたことが認められる。

4  東北大学医学部附属病院第二回入院関係費用 一二万〇七六二円

原告が昭和四八年二月七日から同年四月九日までの間左膝関節拘縮の改善を図るための膝関節授動術の手術を受けるべく東北大学医学部附属病院に入院したことは前記認定のとおりであるところ、前掲証人川村正典の証言によれば膝関節拘縮が本件の如き大腿骨骨折に対し観血的骨接合術を施した場合不可避のものであることもまた前記のとおりであるから、右の入院関係費用は本件交通事故と相当因果関係のある損害ということができる。

(一)  入院治療費 九万八九二八円

成立に争いのない甲第三号証の一六、一九ないし二二によれば、原告が第二回入院の際に支払つた治療費の合計は九万八九二八円であることが認められる。

(二)  入院雑費 一万九五六〇円

成立に争いのない甲第一六号証の一、原告本人尋問の結果により成立の認められる甲第四号証ないし第一五号証によれば、原告が右入院の際に支出した雑費は一万九五六〇円を下らなかつたことが認められる。

(三)  退院後の外来診療治療費 三九〇円

成立に争いのない甲第三号証の一七、一八によれば、退院後の外来診察の際(昭和四八年五月八日)、前記病院に支払つた治療費は三九〇円であつたことが認められる。

(四)  交通費 一八八四円

当裁判所に顕著な交通経路及び所要運賃に照らせば、原告が同病院に入、通院(一日)するに要した費用がその主張の金額一八八四円を下らないものであることは明らかである。

5  慰謝料 八七万円

原告は本件事故による前記傷害の治療のため長期間にわたり各病院に入、通院し多大の肉体的、精神的苦痛を被つたのであるが、医療過誤がなければ右傷害が遅くとも昭和四七年一二月末までには治癒したものと認められるのであるから、前記示談契約により被告両名の負担すべき慰謝料の金額は

1,000円×870日=87万0,000円

八七万円となる。

右1ないし5の損害の合計金額は三〇七万四三六二円である。

6 損害の填補

(一)  原告が被告田中与惣右衛門から六〇万九六〇〇円の支払を受け、うち三六万九六〇〇円を前記1の内金に、うち七万二〇〇〇円を前記2の内金に、うち一六万八〇〇〇円を前記5の内金に各充当したことはその自認するところであるから、右損害金の残額は前記1の一五四万四四〇〇円、2の五万七六〇〇円、3の四万円、4の計一二万〇七六二円、5の七〇方二〇〇〇円の合計二四六万四七六二円である。

被告両名は、原告に対し被告らの支払つた金額は一〇六万円を越える旨主張するところ、なるほど成立に争いのない乙第五号証の一ないし一一、第六号証ないし第八号証によれば、原告に対し、あるいは原告のため被告らの支払つた金額は一〇六万一四四七円であることが認められるけれども、右金額のうち原告の自認する金額六〇万九六〇〇円を越える部分は本件交通事故により原告に生じた損害中、本件請求外の損害分に充当されている(それ故にはじめから本件請求から除外されている)ことが明らかであるから、右主張は理由がない。

(二)  そして原告が自賠責保険金一六八万円を受領したこともその自認するところであるから、前記損害金の残額からこれを控除すれば、被告両名の原告に対し支払うべき金額は、七八万四七六二円となる。

7 弁護士費用

本件事案の性質(被告両名関係分)、難易度、認容額等一切の事情を考慮すれば、原告が被告両名に対し、その支払を求めうる弁護士費用としては、一〇万円をもつて相当と認める。

8 以上の次第で被告田中与惣右衛門、同田中篤は原告に対し、各自八八万四七六二円及びうち七八万四七六二円に対しては、同被告らに対する訴状送達の日の翌日である昭和四九年一月二四日から、うち一〇万円に対してはこの判決言渡日の翌日から各完済まで民法所定年六分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。

(被告小内信夫関係)

1  休業損害 一〇八万六八〇〇円

本件交通事故による原告の受傷後、その症状が固定し原告の就労が可能となるまでの期間(休業期間)のうち、被告田中与惣右衛門、同田中篤の責を負うべき日数が八七〇日であると認むべきことは前記のとおりであるから、その余の期間、すなわち四九四日は被告小内の責を負うべき日数としなければならない。

しかして原告と被告田中与惣右衛門、同田中篤との間に締結された前記示談契約の内容に照らせば、原告は当時一日当り二二〇〇円を下らない収入を得ていたものと認められるのであるから、被告小内の支払うべき金額は

2,200円×494日=108万6,800円

一〇八万六八〇〇円となる。

2  東北大学医学部附属病院第一回入院関係費用 二八万一五二五円

原告が昭和四七年五月一二日東北大学医学部附属病院で診察を受けたうえ、同四七年五月二〇日から同年九月一四日まで同病院に入院して偽関節部骨接合術を受けたものであるが、右手術が原告の左大腿骨骨折部に生じた変形及び異常可動性の改善を図るための医療措置であることは前記認定のとおりであるところ、右変形と異常可動性の原因となつた偽関節の形成は被告小内の医療過誤により招来されたものであるから、右の入院関係費用は被告小内の負担すべき債務とするのが相当である。

(一)  入院前の外来診察費 一〇一円

成立に争いのない甲第三号証の一、二によれば、原告が第一回の入院前に同病院に支払つた外来診察費は一〇一円であつたことが認められる。

(二)  入院前の宿泊費 九六〇〇円

原告本人尋問の結果により成立の認められる甲第二号証の二によれば、原告は第一回入院前同病院の外来で診察を受けたが、その際付添の家族とともに仙台市内の旅館で宿泊し、その費用として九六〇〇円を支払つたことが認められる。

(三)  入院治療費 一二万七三六五円

成立に争いのない甲第三号証の三ないし一〇によれば、原告が第一回の入院の際に支払つた治療費の合計は一二万七三六五円であることが認められる。

(四)  付添料 一三万四二九〇円

原告本人尋問の結果により成立の認められる甲第一八号証の二ないし一〇によれば、原告は第一回入院の際同四七年六月五日から同年八月六日まで家政婦の付添を受け、紹介手数料等を含めてその費用として計一三万四二九〇円を支払つたことが認められる。

(五)  入院雑費 二二六〇円

成立に争いのない甲第一六号証の二ないし九及び弁論の全趣旨によれば、原告が右入院の際に支出した雑費は二二六〇円を下らなかつたことが認められる。

(六)  退院後の外来診療費 七五九円

成立に争いのない甲第三号証の一一ないし一五によれば、退院後同病院の外来で診察治療を受けその費用として七五九円を支払つたことが認められる。

(七)  同宿泊費 二四三〇円

原告本人尋問の結果により成立の認められる甲第二号証の一によれば、原告は同病院退院後、外来で診察を受けたが、その際仙台市内の旅館に泊り、その費用として二四三〇円を支払つたことが認められる。

(八)  交通費 四七二〇円

当裁判所に顕著な交通経路及び所要運賃に照らせば、原告が同病院に入、通院(通院は四日として)するに要した費用はその主張する金額四七二〇円を下らないことが明らかである。

3  労働能力喪失による逸失利益 一三七九万九二一四円

成立に争いのない甲第二一号証の二、原告本人尋問の結果によれば、原告は昭和二七年一月二〇日生の男子で、本件事故当時山形市内の左官店に左官職として住込稼働していたこと、そして前記各病院で傷害の治療を受け、症状の固定した昭和四九年五月頃から再び左官職に復帰し、現在第一建設企業組合に所属し、左官職として就労していることが認められる。

証人皆川寛次の証言と同証言により成立の認められる甲第四二号証によれば、同組合所属の一般組合員の年間就労日数は平均して二五〇日位であるところ、昭和五三年度における同組合の支払賃金は一日当り八〇〇〇円であつたから、その年間収入は失業保険金を含めて二二〇万円を下らないものと認めることができる。

そして前記認定の後遺傷害の部位程度からすれば、原告は前記後遺傷害のため少くともその労働能力の二七パーセント程度を喪失し、右は原告の就労可能の期間四五年間継続するものと認められるから、原告の逸失利益の現価をホフマン(複式)計算方法により中間利息を控除して算出すると

220万円×0.27×23.231(45年のホフマン係数)=1379万9214円

右のとおり、その金額は一三七九万九二一四円となる。

4  慰謝料 二〇〇万円

被告小内の過誤の内容と治療の経過、原告の身体に生じた前記後遺障害の部位、程度その他諸般の事情を考慮すれば、慰謝料としては二〇〇万円をもつて相当と認める。

右1ないし4の合計額は一七一六万七五三九円である。

5  消滅時効の主張について

被告小内は、仮に被告に過失があるとしても原告は損害及び加害者を知つた時から三年を経過した後に本訴を提起したのであるから、不法行為を原因とする本件損害賠償請求権は時効によつて消滅した旨主張するが、原告の同被告に対する本件請求は不法行為を原因とするものではないから、これを前提とする右被告の主張は採用しない。

6  弁護士費用 一〇〇万円

被告小内との関係における本件事案の性質、難易度、認容額等一切の事情を考慮すれば、原告が同被告に請求しうる弁護士費用の額は一〇〇万円が相当である。

7  以上の次第で被告小内信夫は原告に対し、一八一六万七五三九円及びうち一七一六万七五三九円に対しては同被告に対する訴状送達の日である昭和五一年一一月一九日から、うち一〇〇万円に対しては本判決言渡日の翌日から各完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。

五  よつて原告の本訴請求は右の限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条、仮執行の宣言については、同法第一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 武藤冬士己)

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